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この度プロジェクト傳のホームページを立ち上げるに際して、皆様に御協力をいただき感謝します。プロジェクト傳は、和船づくりから始まりました。

 昨年3月11日、東日本大震災において津波とともに先人が伝えてきたその土地の民族文化が消え去ることが心配です。

 プロジェクト傳としては、その土地に残っている文化をよみがえらせて子供達に伝えていきたいと思っております。

 そして、大津波の体験を正確に語り伝え、後世の人々に役立てなければならないと考えます。

  

平成24年10月

プロジェクト傳会長 鈴木利明

会長挨拶

【海に祈る】

 2011年3月11日、14時46分東日本太平洋沖に巨大地震発生。15時27分、大津波襲来して、あまたの生命と財産が大海にさらわれてしまった。

 2008年11月28日、アクアマリンふくしまが主唱の「伝馬船づくりと伝馬船こぎ」の復活・伝承のしごとに参加した私たちは、舩材の良木をもとめて、阿武隈山系の南端方、いわき市三和町の山に入った。その中のひとりに、鈴木崇さん(昭和18年9月14日生)がいた。山の小川を跳び越えるかもしれないから、といって、港の岸と漁船に渡す「あゆみ」の板をかついでいた。鈴木崇さんは、進水した「海友丸」「海星丸」をあやつってくれた。しかし、鈴木崇さんは、3月11日、自宅近くで津波の犠牲となってしまった。さらに、伝馬舩の行事のたびに、手伝ってくれた鈴木澄子さんも、自宅の前でさらわれてしまった。舩大工佐藤謙二さん(昭和3年10月13日生)の作業小屋は、三艘目の「無名丸」もろともかなたに消滅した。大工道具もいっさい失なって、老船大工の嘆きは深い。「海星丸」の板材を提供してくれた鈴木昭雄さん夫婦はかろうじて助かったが、家財はすべて無くなった。

 アクアマリンふくしまの上記の事業を全面的に支援してきた豊間海友会の鈴木利明会長(民宿えびすや)の家族は九死に一生をえたが、すべての建物が失われた。

 鳴き砂の浜として知られた美しい渚は、ろっ骨むき出しのように変貌した。

 だが、「海友丸」「海星丸」は流されずにのこった。アクアマリンふくしまの安部義孝館長が名づけた「プロジェクト伝」の希望はつながっている。いわき七浜の海洋は放射能によって汚染されているために、漁貝を獲ることはまだできない。

 海の暮らしが鎖ざされたために、海の幸や物語りさえ、喪失の危機にさらされている。

 被災した浜の女性たちの中から、澎湃としてわきあがったうごきがある。「小正月の行事と安波さまの唄」を思い出し歌いつぐ会―浜菊会が発足したのは、2011年12月のことであった。ハマギク―それは、被災した浜に生きのびて咲く「忍耐の花」である。この動きに触発されるようにして、男たちの「プロジェクト伝」に火がついたといえよう。

 2012年2月11日、「安波さまの唄」を200人の被災者の前ではじめて歌ったとき、激励と解説に来てくれたのが山崎祐子さんだった。仮設住宅などから来場した人々は、抱き合って懐旧し、涙をながして、その唄をうたった。山崎祐子さんの心にも炎がもえたろうか。

 民俗建築学会の有志、俳句会の同志、民俗芸能学の人々などが、皆して、「プロジェクト伝」に心を寄せてくださるという。

 私たちは、「みんなで祝おう恵比寿講」という集いをひらいている。2010年11月の最初の恵比寿講は、かねまんかまぼこのそばを流れて、すぐに太平洋に注ぐ滑津川に伝馬船「海友丸」をうかべたりした。その光景が、こんどロゴマークとして生まれかわった。

 今は亡き、鈴木崇さんが漕いでいる。あとの一人は鈴木昭雄さんであり、「えびすだいこく」に扮したのは「えびすや」さんの孫である。

 私たちは、伝馬船をよみがえらせたと同じ心意気で、打ちひしがれてばかりいられずに、子や孫たちに、たいせつなことを精一杯つたえて行く覚悟でいる。

2012年9月17日

プロジェクト傳顧問 山名隆弘

【浜菊】津波の後、豊間中学校にたくましく芽吹いたものを挿し芽で増やした

​顧問挨拶

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